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観客を奏でる

- ヒッチコックのピュアシネマ -

横山智佐子 / 映画編集者

UP

アルフレッド・ヒッチコック “サイコ”

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職場から高額の現金を持ち逃げした直後、マリオンは自宅で逃亡の準備をしている。恋人との新たな生活を夢見て、衝動的に罪を犯してしまったのだ。ベッドに開かれた小さなスーツケースに、必要な衣類を次々に投げ込むマリオン。そのスーツケースの横には、彼女が銀行に入金するはずの札束が置かれている。急いで準備を進める彼女だが、その視線が何度も札束に向けられる。スーツケースの蓋を閉め、車の車検証をハンドバッグに入れると、マリオンは意を決したように札束を掴み、足早に部屋を去る。

アルフレッド・ヒッチコック監督の映画、「サイコ」(1960年公開)の一場面である。58年に及ぶ彼の映画監督キャリアの中で53作目の長編にあたるこの作品は、彼の映画製作技術の集大成であると言っても過言ではない。この作品も含め1950年代は彼のキャリアのピークであり、「めまい」「裏窓」「北北西に進度を取れ」等のヒット作品が次々に公開されている。当時前例のない映像の強暴性から話題を集めたという背景のため、その秀悦さが多々見過ごされがちだが、筆者としては彼の作品中「サイコ」が最高傑作だと思っている。

ヒッチコックの作品を見ていると、まるで映画に感情を弄ばれているような錯覚を受ける。「ハイ、ここで笑いましょう」「緊張しましょう」「怖がってください」というような指示が、まるでスクリーン上に出てくるような感じだ。映画のどの部分で観客にどう感じさせるかが、非常にうまく計算されているのだ。その背後には、ヒッチコックの卓越した技量が施されている。カメラアングル、カメラの動き、画角、効果音、音楽、そして編集。これらが結集して、一つの目標に向かい各場面を作り出している。その目標とは、観客の感情を操ることだ。

「作曲家が楽器を奏で曲を作るように、僕は観客の心を奏で映画を作る」とヒッチコックは言っている。映画を見る時観客の心は実に活発に動いている。スクリーン上で与えられた情報を基に、物語がこうなるんだろうか、ああなるんだろうか、次はこういう展開なのか、ああいう展開なのかという様な予測を常にしながら、観客は物語を消化して行く。こうなるんだろうなと思っている予測が、あまりにも遅くやってくると、観客につまらないと思わせてしまう。全く予期しないことがあまりにも唐突にやってくると、「そんなことがあるはずないだろう」と観客に不満を持たせてしまう。たとえ驚きであっても、納得のいく驚きでないと観客の心は映画からはなれて行ってしまう。どのタイミングで何を見せるか。このタイミングがうまく行けば、映画は観客の心を掴んで離さない。ヒッチコックはこのタイミングの使い方が絶妙だ。

冒頭で述べた場面以前には、マリオンが会社の現金を持ち逃げするということはまったく示唆されていない。頭が痛いので銀行で入金してから家に帰って休むわっと言って職場を去ったマリオン。次のショットでは下着姿で不安げに何かを見つめている。カメラがゆっくりパンダウンすると、ベッドの上に入金されたはずの札束が置かれている。このショットにより、彼女が不安げな表情の奥で何を考えているのかが明らかになる。「盗んでしまったんだ。」するとオープニングの場面で恋人が金に困っていること、マリオンが彼との結婚を願っている事などが描写されていた事が思い出される。サプライズだが、納得のいくサプライズなのだ。

ピュアシネマという映画テクニック

現金をチラチラと見るマリオンの不安げな目線のショットが現れるたびに、逃げる準備をしている一方で、彼女は後悔しているのかもしれないと予測させられる。このシーンの中でマリオンが現金を見るショットは4度登場する。このカットをヒッチコックは、トゥルーシネマ(True Cinema)と呼んでいる。直訳すると「真の映画」となるが、その意味は「映画ならではの手法」「映画にしかできない手法」の意味を含んでいる。例えば舞台劇や写真などを想像してもらいたい。これらの映像媒体では、どこに目線を持って行くか、何に興味を持つかはそれを鑑賞している人によって異なる。一方映画では、クローズアップや何を見せるかによって、観客のそれをもっと確実に操作できる。札束を見る4度のカットが、4度ではなく1度だったとしたらどうだろう。犯した罪に対してマリオンがそれほど罪悪感を感じてないように見えるだろう。マリオンが見ているものが、実は札束ではなく時計だったらどうだろう。どうして彼女は時間を気にしているのか。どこかに時間までに行かなくてはならないのか、と観客は思うだろう。このようにフィルムメーカーは何を見せるか、どのように見せるかを選択する事により、観客の心を操る事ができるのだ。

マリオンが現金を見つめるショットを4度繰り返す事により、ヒッチコックは彼女の迷いと後悔の念を観客の中に強く埋め込んで行く。ポイントオブビューショットとして数回登場する札束のクローズアップは、マリオンの心の中にある犯してしまった罪の重さを強調している。そして次第に彼女が逃げるのか、引き返して謝るのかという緊張感も高まってくる。バックに流れるバーナード・ハーマンの不気味な音楽は、マリオンの迷いの心情をなぞりながら緊張感を高めていく一方、この後彼女に起こる狂気の出来事を示唆しているかのようだ。

スーツケースの蓋を閉めると、マリオンは何か恐いもの、醜いもの、見たくないものの側にいるように、目線をそらせながらベッドに腰を下ろす。そして最後に現金を掴むと、ハンドバッグにそれを押し込み部屋を去る。マリオンが罪を犯したにもかかわらず、彼女の後悔や迷いを強く感じた観客は、彼女に対する同情心を抑える事はできない。その結果この後マリオンが体験するスリルやホラーを、自分の事の様に感じて行くのだ。映画のオープニングから約11分の所で登場するこのシーンによって、映画は観客の心を掴み最後まで離さない。トゥルーシネマを完璧に理解しているヒッチコックならではの技量だ。

映画が大好きで映画館に通っていた10代のころ、エクソシストを皮切りにホラー映画が大流行した。ホラー映画を見尽くしていた私は、ある日劇場でヒッチコックのリバイバル映画を見る機会を得た。1950年代に制作されたヒッチコック作品には、流行していたスプラッター映画の様に、血しぶきもなければ、残虐な殺人映像も出てこない。ところが見ていて感じる緊張感や恐怖心は当時の流行映画以上に強かった。どうして?なぜ?私の中で映画が、見て楽しむものから、作る方への興味に変わって行った瞬間だ。

イラスト:三宅ひさこ